プロフィール

西 恭利 


自己紹介: 生年月日: 1973年9月19日
出身地: 和歌山県串本町
 資格: 一級建築士

    一級施工管理技士

 

1973年 和歌山県串本町に生まれる。

幼少期は、奈良県十津川村に在住。父方の十津川村、母方の串本町の間で育つ。今考えても、恵まれた環境であったように思う。4つ上の兄が一人。従順な次男でした。

 実家は和歌山県串本町。昔からある古民家のような家で、いわゆる田の字型プランの大きな家。もう100年も前に建てた家ながら、毎日のように祖母が雑巾でそこらじゅうを掃除していた記憶が。きっちりメンテナンスをしていれば、家ってこんなにきれいに長持ちするんだ、というような家でした。

 小学校2年生までは、十津川村の平谷小学校。当時の住まいは一軒屋の借家でした。とても古い家でしたが、大きく、庭もあり居心地が良かった記憶がある。

 

小学校2年の時、銀行員であった父の転勤により、奈良県五條市に引っ越すことになる。

 

この時のカルチャーショックはすごかった。なんといっても、電車が走っていたこと。踏切を渡る度に興奮していた記憶がある。あとは、食パンがおいしかったこと。でも、水がまずくて飲むことができませんでした。

 

 この時代の住まいは、いわゆる建売住宅。建売といっても、現在主流の建売ではなく、かなり手作り感のある建売住宅だったように思う。そして小さい家でした。かなり機能的な家で、なかなかのプランでした。2階建てというのが感動した記憶があります。

 あまりの家の狭さに、兄、私とも物理的に大きかったために、その後、父のDIYにより、ベランダに私の勉強部屋が増え、総2階25坪程の小さな家が、どんどん床面積が増えていったような…。この勉強部屋は3帖ぐらいだったと思うが、この小ささがとても落ち着き、気に入っていました。

 小学校時代、熱中したのが少年野球。6年生まで毎週水曜日、土日の練習、試合には欠かさず参加。チームはそんなに強くはなかったんですが、とにかく一生懸命やりました。できることをやろう、というチームスタイル。難しいプレーはできなくても、皆で協力したり、大きな声を出したり、できることはあるはず、と教え込まれ、いまの自分のスタイルにも多少なりとも影響があったようにも思う。

 そんな小学校時代、飼っていた柴犬『ロッキー』。両親が、内気な私を心配して、ある日連れてきた。そんなに内気だったのか、と今は思うが。確かにひとりでいることは好きだったかもしれない。毎日の散歩、大変でしたが、これも今思うと幸せな犬との関係でした。これ以降、ペットは飼わなくなった。中学校に入ったあたりから、この内気さも、すこしづつ変わっていく。

中学校に入学すると、体が大きかったこともあり、柔道部に入部。柔道部の練習はとてもきつかったが、なんとかやりこなす。

あと、中学校の担任の先生のおかげで、生徒会長や、いろんなことにチャレンジすることになる。このころから、前向きな自分に巡り合い始めた気がする。でも、基本はまじめ。周りからしたら、少し重い感じもするが。

 

 建築との初めての出会いは、技術の時間。

空き缶や空き瓶を、石膏でつなげて建物を作るという課題。自分で考えたものが3Dで出来上がってゆく楽しさに初めて触れたように思う。

 高校受験は、推薦入試となる。入学したのは、智辯学園高等学校英数科。ここでの3年間は、その後の人生を左右したように思う。やはり、友との出会いは大きかった。一応、進学校でしたが、本当に仲良くさせてもらった。勉強はしんどかったけれど、毎日出会う仲間との会話は本当に楽しく、将来どうしたいか、具体的に考えるようになってきた。

 進路を考えるにあたって、まず頭は理系。理系の中では、ん~、何があっているか考えるうちに、モノづくりができる建築がええのでは、と思い始め、ほぼほとんど工学部建築学科で受験。

第一志望の国公立は、あきらめ、結局私立の大学に決まる。

 関西大学工学部建築学科 入学。

憧れの建築学科入学。すべてがカルチャーショック。学校もそうでしたが、それ以前に、寮。寮がすごかった。『関西大学北斗寮』入寮。オリエンテーションから、社会の厳しさに触れる。今はもうないのが残念ですが、本当に厳しい寮でした。部屋は4人部屋。当然1回生から4回生の4人。当然、1回生の仕事はいろいろ。でも、2回生、3回生、4回生になるにつれても、それなりの仕事があり。結局、4年間この寮でお世話になることになる。

集まって住むことのむずかしさ、あるいは楽しさを存分に経験することができました。

 建築学科の授業も、比較的まじめにできたのでは、と思う。そこまでデザインに対して勉強することはありませんでしたが、幅広い知識を得ることはできました。

 寮の3階廊下踊り場には、常時洗濯物が干してある状態でしたが、その一角を自分の製図スペースに。

 アルバイトも、ありとあらゆるアルバイトを経験。北新地のバーテンから、ゴルフのキャディー、家庭教師、甲子園の7回裏の風船飛ばされた後のグラウンドの清掃まで。いろんなバイトを経験。なかなか一つに固定されなかったのは、休みになるとバイクで日本全国、海外までツーリングに駆け回りたったため。

 バイクでは、本当に日本全国走り回った。沖縄以外は全県。高速道路は使うことはなかった。そのプロセスが大切だと感じていたから。特に多かったのは、北海道。北海道の美瑛町で初めて大根堀の仕事。これ以降、住み込みで美瑛町の農家に毎シーズン行くことに。夏はツーリング、冬はスキーに。

 

海外ツーリングは、オーストラリアへ。ほぼ2か月。現地でバイクを購入し、現地で売って帰ってくるというスケジュール。事前に何人か現地の方を紹介していただきましたが、基本ひとり旅。何度か危ないことになったものの、無事帰還。

 そうこうしているうちに、就職の時期が。そのころ、補償設計のアルバイトをやっていて、そちらの方の紹介で、小さな設計事務所に就職。

 堺東にある 生活建築工房という設計事務所。実務レベルではほとんど使い物にはならなかったと思うが、一生懸命働くというよりは勉強させていただく。ここでの経験も今の自分のスキルにつながっているところが大きくあると思う。所長さんには、本当に感謝しています。

 設計事務所時代の住まいは、その当時仕事でお世話になっていた工務店さんの事務所の2階。事務所の2階といっても、きちんとした賃貸マンションで、お金はありませんでしたが、2DKの裕福な住まい。今まで寮生活がメインだったこともあり、一人暮らしの楽しさは存分に味わえました。

 最初の設計事務所時代も、終わりそこからいろんな設計事務所をまわることに。求人を探すのは、主にはよくある新聞の広告欄。とにかく働かないと生活ができないために、なんとか探し、転々とする。何のために自分はあるのか、深く考えた記憶がある。

 大阪で何年か働き、そのころの住まいは文化住宅。自力で生活したい、一からやり直したい、そんな決意があったように思う。風呂も便所も部屋にはなく、その代わり15000円/月と安かった。4畳半1室の生活。生活費は切り詰めた。夏はダニが多く、朝起きると体中がえらいことになっていたことも。また、仕切りが薄いためか、声やTVの音が筒抜けで、酔っ払って帰ってTVをつけたまま寝ていると、隣のおばさんが怒鳴り込んできて起こされたことも、今となっては良い経験かと。

どんな住まいでも、愛着を持って住めば都となることを実感。

 

 そろそろ、建築も自分には向いていなかったか、と思い始め。ちょうどそんなときに、親戚の方から、和歌山のハウスメーカーの現場監督の空きがあるが、どうだろうか、という連絡をいただき、一般の建築はあきらめるつもりで、快諾する。

 ダイワハウス工業和歌山支店時代。今までの貧困からは一時免れた時代。今まで、自分が何のために存在するのか問うてきた中、ハウスメーカーでの仕事はある意味幸せでした。会社から仕事が与えらえ、それをそつなくこなせばよい。難しい現場や、施主様もおられたが、現場の基本は学ばせていただきました。

 ハウスメーカー時代の住まいは、まずは入寮。大学時代の寮生活が大好きだったこともあり、入寮時は本当に嬉しかった。共同の大浴室、便所で、食堂があり毎朝夕は管理人さんがご飯まで作ってくれた大満足な住まい。その後、紀南(和歌山の南)エリア担当になり、田辺市で、ワンルームマンションを借り、会社には行かず現場とマンションの行き来の毎日に。不満はなかったけれど、どーもワンルームマンションというのは、つながりがなく結構味気ないものでした。

 ある程度、仕事ができるようになり、余裕ができてくると、やはり思い返す建築の道。この辺で、結婚もあり、また、この結婚が自分の人生を左右することに。相方が、偶然建築設計事務所に勤務。この時点で、やはり、もう一度建築の世界に挑戦を決意。

 このころヨーロッパへ旅立つ。

イタリア→スイス→フランス→スペイン→フランス→ドイツ。初めてのヨーロッパ旅行。ユーレイルパスを購入し、各国まわることになるが、宿はその日その日に、駅に降りてから探すことが多かった。どの宿も、それなりの個性があり、また世界の建築を肌で感じることができた旅となりました。

 ハウスメーカー退職後、新居の近くの工務店に、インターネットで見たんですが、雇ってほしいと工務店社長に面接に。その工務店が、『コアー建築工房』。

この新居は、泉北ニュータウンの公社の賃貸。床面積が55平米。泉北ニュータウンには、公団公社の賃貸住宅が多くありますが、住まい方によってはとてもいい住まいになります。床には杉のフローリングを敷きこんで、間仕切りの障子は取っ払いほぼワンルームに。新婚時代に住まいにしては、とても満足する住まいでした。

 

 ハウスメーカーでは、現場管理をできるようにはなっていたが、一般の工務店での知識はほとんどなく。一から教え込まれることに。ここでの経験は、建築のみならず、仕事の仕方に至るまで、幅広く徹底的に勉強させていただきました。

 このころ、住んでいる賃貸公社の近くに、中古の分譲マンションの空きがでたという情報が。

 その後、相方と一緒にセルフリノベーションして、現在の住まいに至る。

 コアー建築工房で8年。会社の取り組み、仕組み、仕事、自分の中でも大好きでした。担当させていただいた物件は新築から大型リフォームまで幅広く。そんな中で、最終的には自分の建築的な考えを世に問いたい、これからの社会に貢献する技術者をめざし独立することに。

 家族は、妻と3人の子供達。まだ長女が小学校低学年、次女は保育所、三女は1歳。幸か不幸か、全員女の子です。

 休日になると、上手ではないがみんなでご飯を作り、食べることが大好きな40歳。

 あと、趣味としては大学時代から乗り続けているバイク。今は、遠くにツーリングには行けないが、バイクに乗った時の自由感は最高に思える。

 そして、建築。

仕事ではあるが、大好きである。

こうやってプロフィールを書かせていただいていても、当然ではあるが、人と住まいは、本当に密接な関係にあるように思える。そして住まいには思い入れが込められ、思い出が詰まってゆく。

これから、この住まいはどんな形になってゆくのだろう。

もう、大量生産の時代は終わり、その家庭の暮らしが形になった結果、住まいとなる時代。

そんなに大きくはなくても、

そんなに豪華ではなくても、

そんなに新しくはなくても、

その家庭の『らしさ』が醸し出されたときに、最高の住まいとなるように思う。

 

  僕が造りたいのは、

   『作品』ではなく、

    『ストーリー』なんだと思う。

 

ひとりでやりはじめて。

 そして、力を入れたいと思ったのが、リノベーション事業。

今あるものをうまく利用して、豊かな空間を造ることに魅力を感じた。

建築的には、性能向上ということで、リノベーションデザインとして魅力あるものにすることはもちろんのこと、既存物件の耐震性能と、断熱性能を上げ、建物を資産価値として向上させていと思った。

堺市 住宅・建築物耐震改修補助事業をさせていただきました。

大変なことも多い耐震補助事業で、お施主様や工務店さんに協力していただきながら進めた物件。出来上がった時、お施主様のほっとした顔が忘れられない。

まだまだ、老朽化した物件が多く、1件でも多くの住宅の耐震化を進めることは、建築士としての使命でもあると感じる。

そんな考えのバックボーンになるのが、岐阜森林アカデミー 木造建築病理学『住宅医ネットワーク』


まだリノベーションという言葉もそう聞かなかった10年ほど前、その頃開講した岐阜県立森林文化アカデミーで「木造建築病理学」講座を受講しました。それほど中古住宅が注目されている頃ではなかったかもしれませんが、これからはスクラップアンドビルドではなく、いまある建築をどう活かすのかがテーマになると確信していたからです。また、そんな世界がその頃から好きでした。

この「木造建築病理学」は、今では住宅医ネットワークと名を変え、建築再生の調査・診断や改修設計・施工の技術を実践的に学ぶということで住宅医スクールとして開講しています。

そこでは、耐久性能と維持管理、木材の劣化、耐震、温熱・省エネルギー、など、現在は24の講義を基本としていて、スクールを通じて、地域の住まいのドクターである「住宅医」を、より多く育成することを目的としています。

そして、そのスクール内では、住宅医修了生を対象に、毎年1回、実施物件のプレゼンテーションによる住宅医検定会を開催され、机上の知識だけでなく、依頼からリフォーム完了までの住宅医としての実践力を、スクールの講師及び受講生により総合的に判定し、合格者を「住宅医」として認定しています。

 そして、検定会で発表させていただいた物件は、昨年相方と仕事した大阪狭山の家リノベーション工事。

既存物件を調査し、耐震、断熱はもちろん、いろんな方向から検討計画された物件でお家です。

今回は、全面改修ではなく、1階のメインの居室、水廻りのリノベーションでしたが、今後このような要望が多いのでは、と感じたお家でした。

 

 

また、新築工事においても、お施主様のニーズに合ったものを考え実現できました。

『小さな家』と名付けられた、夫婦2人だけの家。

「もう、なんでもいいんで。津波の避難用の家だから。」

ふたりで洋食屋さんを営まれ、

将来の津波に備え、いまある串本町の家とは別に家を建てたいということ。

夫婦二人のための小さな家のお話がはじまった。

 

どんな家にするか。敷地調査、プラン、打ち合わせを重ねる。

ちょうどよい敷地に、必要最低限の部屋、設備を考えた機能的なプラン。

予算についても、できるだけ安くできるように、使うものを吟味した。

 

基礎工事も完了し、いよいよ上棟をひかえたころ、

「ちょっと色を塗ってみました!こんなんでどうですかね?」

そこには、絵具で塗られた外観図面。

近所の文房具屋さんで、絵具を購入し調色しているのを想像すると、

避難用から終の棲家に変わり、仲良く計画するご夫婦が少しうらやましくも感じ、

ええもんにしたい気持ちが、もっと強くなった。

 

12坪の平屋です。ふたりにはちょうどよい大きさ。

でもこんな家、いいなと思うし、またある意味これからの家ではなかろうか、とも思う。

小さいけれど、機能的で、可変性があり、しっかり施主さんの思いが詰まった家。

そんな小さな家ができました。

そして、堺では、『それでも、小さな家』新築工事。

こちらは、ご主人おひとりでのお住い。男の隠れ家です。

建築の仕事をさせていただきながら、いろいろな方々とのつながることができました。

地域のつながりとして、また私の事業目的である泉北ニュータウンの再生、活性化。

泉北ニュータウンは、高度経済成長期の住宅需要に応えるため、大規模な計画市街地として整備され、緑豊かな住環境を有するまちとして成長してきました。

一方で、昭和42年のまちびらきから40年以上が経過し、社会環境の変化とともに、人口の減少や少子・高齢化の進行、住宅や道路、橋梁などの都市施設の老朽化など、様々な問題が顕著になっています。

そんな住宅や施設を再生する為、堺・泉北に於いて、使用者、又は住宅取得者と、既存ストックをつなげる役割が必要とされ、確かな建築技術をもって建築を再生すると同時に、人と人のつながりを構築することによって地域、まちの活性化を目指すなか、堺市ニュータウン再生室の企画もあり、泉北ニュータウン魅力発掘プロジェクトに参加させていただくことに。

まずは、泉北ニュータウン魅力発信フィールドワーク。

住宅街を縫うように緑道が走り、いたるところに緑豊かな公園が溢れています。

そして、それらを使ってみんなで楽しもうという企画。『まちの住みかを楽しもう』

自分たちそれぞれで企画し、お披露目会。

私は『だんぢりキッチン』として、泉北の豊富な緑あふれる公園を、キッチンとして企画しました。

同じ志を持った仲間たちと、そして、地域の方々と一緒に楽しみました。

 

『泉北再生』といって、なにもしなければ別にニュータウンが滅びるわけでもありませんが。

その地域に住む人として自分自身に、どう豊かに暮らすか、どう豊かに生きるか、そんなことが問われているのだと思います。

このプロジェクトがきっかけに、いろんな広がりやつながりができればと思います。

 

また、泉北ニュータウンリノベーション協議会に参画させていただき、今後増えつつある空き家の有効利用を、ソフト面(使い方)ハード面(建築不動産として)両方からも、進めてゆきます。

そして、いまもそんな取り組みをさせていただきながら、仕事をさせていただいています。

 

私は、もともとは和歌山生まれの奈良育ち。

泉北ニュータウンは、いろいろな人生のいきさつの中で出逢ったひとつの場所でしかないかもしれません。

ただ、私たちの娘は、ここ泉北ニュータウンで生まれ、泉北ニュータウンで育ち、

そして、泉北ニュータウンが『ふるさと』になります。

そんな街や、また出会った人たちとの関係を

大切に、大切に、日々を暮してゆきたい。

人生-一期一会。

そう感じる、今日この頃です。

 

西紋一級建築士事務所

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